ところどころに貧弱な草が生えるだけの荒れ野に近い牧草地を過ぎると、驚くほど緑豊かな森があった。村人が述べた通りだった。足下が砂混じりの乾燥した地面から、下草の生えた黒い土に変わった。

　　石畳の地面に幾つかの石を並べていた。お気に入りの石に、この場所で見つけた石が混じっていた。どこで手に入れたのか覚えていないが、片面が平面に磨かれた綺麗な緑色の石であった。石の床には薄い浮き彫りがあり、それは何かの花の形に見えた。頭上には奇妙な石のアーチがあり、少女は石を並べ、その配置を眺め再び並べるという遊びに熱中していた。
　　ミーレートスでよく見るスタイルの白に青い模様の入ったチューニックを着ている。粗末な衣服であったが、ひとりで床にかがみこんだ少女の姿はどこか高貴な印象があった。少女は、部分的に遺跡になった石の建造物のあいだにいた。空は青く、陽の光のなかで、少女の姿は小さな白い点にも見えた。

　　小高い丘の樹の傍らで、平たい石の上に座って、遙かな石の聖所で遊ぶ少女の姿を眺めていた。銀で造ったリング形状のカチューシャを黒い髪の上に付けていた。手元にパピュルス紙があり、その一枚に蝋インクの筆で文字を記した。（Silvestria, et sanctae materes inter stella...., nyn de.. ）。
　　遙か向こうの石の建造物のあいだで、金色の髪を持った少女は、自分が求めていた配置が見つかったのか、石を並べるのを止めた。彼女は顔を上げ、空を見つめた。青く、遠く、紺色にも見える空のなかに何かを探すような姿だった。それから手元の一つの石をじっと見つめた。

　　森はしばらく歩むと、岩の並ぶ高台へと出た。そこから眼下に大きな緑で飾られた谷が展望できた。ところどころが草地となっている森林で、ゆるやかに下方に向け曲面が構成され、谷の底に達し、そこから再度、カーヴを描いて谷を挟む対岸の峰へと続いていた。
　　あと少しである。この谷を越えた向こうに「神殿」があるはずだった。正確には、神殿の遺跡とも言うべきか。谷へと降りてゆくには、更に右の方の高台へと進まなければならなかった。
　　（世界は、このように可視的に実在している。人の生命と精神も実在している。しかし、わたしは年老いた。旅の果ては、荒野で倒れて死すときであろうか）。頭のなか、遠くでうなり板をまわすような細かい震動の音が響いた。このような音は実在していない。しかし、この陽に照らされた空間で頭のなかで響いてくる限り、それは実在だとも言えた。

　　なめらかに磨かれた石の表には、緑と青の縞模様があった。彼女には読めない文字で何かが記されていた。それがヘレーネスの文字だということは知っていた。大人になれば、読めるようになるだろうし、今度、賢者アレイオスが訪れたとき、少し教えて貰ってもいい。ただ、この石を賢者様であっても、見せるのは抵抗があった。それはしてはならないことのように彼女には思えた。
　　緑と灰色、青の模様が浮かぶ石の面は、見つめていると、深い水の底を眺めているような錯覚が起こった。模様が動くはずがないのだが、何故か、水の層を通して眺めるように、青と緑の模様がゆらめいて、新しい別の何かの姿を示すようにも思えた。不思議だったし、奇妙なことでもあった。


　　（人は、瞑想によってときを越えることができる。数多くの時代を人は旅することができる。クレータの迷宮の女神アリアドネーは、クトニオスの主ディオニューソスの妃となった。ナクソスで年ごとに行われていたあの儀式の意味は、生命の永遠の循環。ディオニューソスは年ごとに殺され切り刻まれ、煮られ、それが大地に新しい生命をもたらす。わたしが会ったあの王は、まだ十代半ばだった。自分の死の運命を直視するあの鳶色の眸の深さを覚えている）。
　　別のパピュルスを取り出すと、レーラの書翰を眺めた。イオニア方言に近いギリシア語で書かれた文字の並びは、口のなかで発音すると散文詩に似ていた。キタラー詩人ハルモニオスの演奏した音楽が想い出された。銀のカチューシャを冠した彼女は、小型の携帯用のリュラーを取り上げると、幾つかの弦を軽く弾いた。音が光のように散乱した。遠くのレーラ・アッテロスのアーチにいる少女にこの音は聞こえないはずだった。

　　確かに旋律だった。こんな山奥の森のなかで牧人がキタラーを演奏しているのだろうか。あるいは、キタラー歌人が遠く足を伸ばして、このような場所にも来ているのだろうか。シュンクレティアースは、キタラー歌人、と言いかけてそれが自己言及になっていることを知った。（世の人はわたしをキタラー歌人と呼んでいるのではないか）。
　　無数の砂を虚空のなかで擦れ合わせているような雑音が頭のなかで響き、その狂気じみた音の嵐のなかで、澄んだキタラーの旋律が響いた。かなり離れた場所で誰かがキタラーを演奏しているとしか思えなかった。
　　シュンクレティアースはかつてレーラで聞いた詩人とその奏でた音楽を思いだした。キタラーの弦をゆっくりと奏でつつ詩人はうたった。
　　《いかでかこの世に、われらは生まれ来たりぬ
　　《喜びの野たるエーリュシオンは夢幻にして
　　《われらがいのちぞ、老いて空しく、死して戻らず
　　《悪しきくさぐさの定めぞ、この世なるか
　　《わが涙の流れ、されど世はわが涙をかえりみず
　　《流れよ、わが涙、不在なるわれらの魂の故郷を思い
　　《いつの日にか、エーオン、この世を救いたまうや？
　　ティル・トゥラ・ルラ・ティシュ・シャシュ・ルラ……キタラーの弦の響きはシュンクレティアースの心に深い悲しみと郷愁をもたらした。この音楽は、レーラの詩人のうたった詩の旋律に合っている。（ルラ・ティシュ・シュシャ・シャ・ル……流れよ、わが涙、流れよ、わが希望、消えて去りゆく朝の星に似て……）。彼は口ずさんでいた。


　　音楽が目に見える人がいるとわたしは聞いたがことがあるわ。彼女は、緑の石の面をみつめながら心のなかで呟いた。なめらかな石の表面に彼女は何かの音楽の旋律を見ていた。（Puella aeterna, puella in saecula, puella Mundi stellae.....）。そう、ティ・シュ・シャル・リル・ララ……空しきはこの世、あなたは成長せず、常に乙女なる、永遠の少女、なみだの湖を前にして、何をねがうのか？　悪と滅びのこの地上にあって？
　　（誰の言葉なのだろう？）少女は石の面を、もう一度凝視した。
　　石の面の模様が透けて見えた。いや、手元の石の面の模様に重なって、イメージが見えるのだった。星の輝く暗黒の空間だった。そこを透明な鳥の形をした何かが、翼を開いて飛んでいた。虹の光の旋回する氷の宮殿が見えた。暗黒の星の空間に浮かんでいた。氷の宮殿のなかに二つの姿があり、それは彼女には二人の少年に見えた。
　　少年の一人が云った。『彼女はいまぼくたちを見ている。多分、ヴァルターを探していて、ぼくたちの消射ラインのどれかに交差したのだと思う。ああ、そうシュヴェーンの運命とは、この時点では交差しないけれども』
　　少女は少年の話す言葉は理解できなかった。しかし意味が直接響いてくるのだった。しかし、「ヴァルター」とは何なのだろうか？


　　朝霧のなか、彼は時空の運命が交差する地点へと向かい歩みを進めた。（彼女はサンダルフォンの統治者となる。そしてその後は？）風のかすかな響きがあり、彼は邂逅に向かって霧のなか進んでいた。

　　リュラーを軽く奏でながら、銀の冠をかぶった小柄な人物は、レーラ・アッテロスの神殿跡にいる少女の一挙一動を見守っていた。少女がミュラリュトスを通じて、時空の模様を垣間見ていることが分かった。
　　（「時空の模様」……わたしには縁のない言葉かも知れない。それを知っているのは、わたしではなく「不在のわたし」のはずだから。わたしは本来ここにはいない。この世界にわたしは存在していない）。
　　パピュルス紙をもう一度取り出すと、蝋インクで文字を綴った。

　　谷の底へと降って行き、そこから向かいの峰へと通じる古い道を辿って行くあいだにも、あのキタラーの旋律は、ときに途切れながらも続いていた。石の道標が草に埋もれた道を登るにつれ、旋律はますますはっきりと聞こえて来るようだった。この辺りはレアー・アルテミス女神の古い聖域でもあり、この道は、いにしえにあって女神を捧持する神官や巫女が辿ったものだった。
　　彼は旅行用の荷物を麓の邑の宿屋に残して来て、小型のリュラーと羊皮紙を綴じて造ったミュルトス詩華集を一冊、そしてアッティカとローマのタラント銀貨幣を所持していた。麓の宿屋はレーラの信徒の地方拠点でもあり、ミュステーリアを受けている彼は「賢者」の資格で歓迎されていた。レーラのアポクリュフォンは、東はアナトリアからシリアの沿岸及び内陸部にかけて広がっており、西では、グライキア・マグナとクレータ、シチリアそして帝国の首都ローマにも秘かな信徒が存在していた。
　　ルビコンをユリウス・カイサルがわたって何年になるのだろうか。カイサルは元老院で暗殺され、その血は東地中海へと流れ込んだ。カティリーナをかつて弾劾したローマは、いまアレクサンドレイアのイシスの大司祭・プトレマイオス王朝の女王とその愛人たるローマの執政マルクス・アントニウスを再び弾劾しようとしている。


　　神殿は柱が残るだけであったが、まだ近くの共同体が管理していて、前庭の庭園には色とりどりの花が咲いていた。パピュルス紙を手にした女性が、石のベンチに座り、並んで腰掛けるもう一人の女性に話しかけていた。
　　「メートロオンを再建することは無理だと分かっています」
　　「イストレース・レーラで成功しなかったのです」傍らの、銀のサークレットを黒髪に冠した女性が答えた。彼女は手に小振りのキタラーを持っていた。
　　「……君が前に座し、君が眸を見つめれば、我が胸は燃え、我が身はふるえん」
　　「メーテール・ポイエーテースのリューリカは、ここでは相応しくないでしょう」
　　「いえ、あれを見てください」
　　編んだ黒髪を両肩にすべらせた詩人は頷いて述べた。「あの子が誰かということですか、エーレクトラ？」
　　「この象徴は、単なる装飾の為ではありませんでしたね、同志」高位の神官であることを示す細い銀の笏杖を傍らに持つ女性は、二人の足下を見ながら、黒髪の詩人に述べた。
　　「これは《百合の花》です、エーレクトラ。わたしは、あの子が何時の時代に生まれるのか知りません」
　　》シュン・リル・シャ
　　黒髪に銀の環を冠した女性はキタラーの弦を幾つか弾いた。
　　「流れよ、涙よ」
　　二人は、足下の石板に刻まれた百合の浮き彫りを眺めた。

　　剣闘士スパルタクスとその同志はローマの大街道沿いに十字架を立てられ、そこに磔された。二千人であったとも三千人であったとも云われる。帝国に叛乱を起こした者たちに与えられる拷問刑が磔刑であった。シュンクレティアースはその情景を実際に見た訳ではないが、両手首の付け根に釘を打ち込まれ、両足を重ねて、踝を貫通する釘で十字のスタウロスに彼らは磔され、血を流し苦悶し、窒息の残酷な死へと導かれたのである。
　　あの刑罰は日没には終了する規定で、そのときまでも生き残っていた者は、慈悲として足を砕き、すみやかな窒息死が与えられるのが通例であったが、スパルタクスとその盟友たちは、スタウロスの上にあって死を迎えるまで放置された。イサイアの殉教と似てはいないか。義の教師はスパルタクスを見捨てたというのだろうか。
　　シュンクレティアースは谷から峰の上まで到達した。空は青く澄み、太陽はグライキアやクレーテーの地ほどではないにしても強い輝きを持っていた。レーラ・アンピーテロスの小神殿遺跡が樹林の向こうに遠く垣間見える場所で、彼は道脇の石に腰をおろして休息した。シュン・ティ・ラ・シュラ・ルラ・ティシャ……断続的な旋律が響いた。すぐ近くで誰かがキタラーを弾いているようだった。


　　もう午後に入っているはずであるが、あたりは白い霧に覆われていた。太陽の光は、北欧の地ではそのように見えると云われてるような青みがかった色をしていた。
　　『ノルウィッジ領――来たりて去らむ』
　　村からこの道は一筋に続いていた。石のアーチというのか、古代ギリシアかローマを思い起こさせる高い門があった。門は開いており、誰をも拒んでいないようにも見えたが、しかしそうなのだろうか。
　　石畳の通路を進んで行くと、アーチの向こうに、人影があった。まだ十代初めの少女に見えた。綺麗に編んだ黒髪の頭上に、銀のサークレットを冠していた。腰の部分で狭まり、花のように開く青のドレスを纏っていた。
　　「こちらは、伯爵様の聖域ですが。ご存知でしょうか？」
　　その声は澄んで高かったが、少女の声ではなかった。少年の声に思えた。
　　「わたしは招待状を持っている」
　　少女のような少年は銀色の飾りリボンの付いたドレスを優雅に旋回させると会釈した。問いかける眼差しで彼を見た。
　　ダウラントは銀の封蝋の書翰を取り出した。
　　首筋に白と銀の飾りタイを結んだ少年は、彼の差し出す書翰を丁寧に受け取ると、軽くなかを眺めた。
　　「マスター・ダウラント、お待ちしておりました。こちらに進んでください」
　　（いや、少年ではない、娘だ）ダウラントは何故、少年に思えたのか不思議に感じた。
　　少年のような少女（あるいは、もしかして少女のような少年）の後について歩みはじめると、霧が薄くなって行くように思えた。それと共に、足下の石板の面にある銀象眼されたような百合の花の模様がはっきりと浮かんで見えた。少女（あるいは少年）は、ダウラントを導いて、百合の花の模様の上に立たせた。
　　霧のような白いノイズのなかに、リュートの弦を弾く音が聞こえたように思えた。

　　限りなく透明な翠の石の面を通して、少女は別の情景を垣間見た。情景は揺れ動くと溶けて消え、次々に情景が変化し展開して行くのである。焦点の合った情景のなかには、灰色の処々に草の生えた石畳の表にかがみ込んで、小石を並べては、その配置パターンを変更する少女の姿が映っていた。
　　田舎のものらしいヘレーネス風のチューニックを纏っていた。これはわたしだわ。少女は不思議な感じがしたが、その姿は自分自身に他ならなかった。緑の石の向こうに見える少女は、幾度も石の配置を変えたあと、ある配置を造った。
　　四個の石で四角形を造り、その外側に、45度の角度で斜めに重なる別の四角形を四個の石で造っていた。そして真ん中に翠色の石を置いた。少女は、自分で頷きつつこの形象を眺めていたが、ふと顔を上げて、訝しげに周囲を眺めた。石の向こうの少女の青い眸の視線が少女の視線と出会った。二人（あるいは一人なのか）は、互いを見つめ合っているような姿になっていた。そして次にふと、石のなかの少女の姿は消えた。
　　石は、片面がなめらかな平面に磨かれただけの石に戻っていた。その内部を覗き込んでも何も見えなかった。
　　（あのパターンは思いつかなかったわ）と少女は心のなかで呟いた。（あれは、でもわたしだとすると、わたしがやはり思いついたことになるのかしら？）
　　（すべての形には、その元の理想がある。アッティケーの智者プラトーンがそう述べたと、賢者アレイオス様は仰っていたけど……）
　　少女は手元の石を並べると、石のなかに見えたのと同じ配置を造った。そして真ん中に翠の石を置いてみて、そのパターンを眺めて吟味した。（４の４の重なりと調和。オグドアース）


　　少女は満足感が起こり、自分自身で無意識に頷いていた。そのとき、かすかな音が聞こえた。シュティ・シャ・ルラ・シャン・ティ……。誰かがキタラーを弾いている。
　　少女は立ち上がると、翠の石を手に周りを見回した。まだ幾本か残っている神殿の柱、前庭の跡だった、昔は花壇になっていた四角の領域。後ろに立つアーチ。エレイアの邑に通じる道が通る峰、松と楡の樹林、点在する岩。周囲は静謐に満ち、さっき聞こえたように思えたキタラーの弦を弾く音は、耳の錯覚のように思えた。
　　周囲を見回していた少女の視線は止まった。それほど高い位置ではないが、空に何かが光って見えた。目を凝らすと、それは小さな白い点に見えた。「星の光？」少女はありえないはずの昼の星を見つめていた。


　　オリーヴの生えた道をくだって行くと、松の樹林に隠れて見えなかった小高い場所が見下ろせた。そこからキタラーの弦を弾く音が聞こえてきたように彼には思えた。そして、黒い髪に銀の冠を被った白い姿が一瞬そこに垣間見えたように思えた。銀のサークレットに太陽の光が反射し、虹色に光が散乱したように思えたとき、そこには誰もいなかった。
　　「最初から、何もなかった、と思う」シュンクレティアースは自分に向かって話しかけた。そのイメージは、見えたのではなく、幻聴のようなキタラーの旋律が自分の心のなかに呼び出した像なのだ。では、あの音楽、あの古雅な調べもまた幻なのか？

　　頭のなかで細かく煌めく砂が鳴る音がした。耳鳴りが強くなって行き、そのなかに遠くで響く風のうなりが聞こえた。誰が演奏しているのかキタラーの楽音がかすかに聞こえた。風は荒野を吹き過ぎ、いちいの森をざわめかせ、星の輝く夜の空へと上昇した。翼の羽搏く音が聞こえ、無数の翼の音が響いた。
　　》シャン・ル
　　シュンクレティアースはキタラーの弦を軽く弾いた。空は青く、透明な穹窿が頭上にあった。草の繁る径を降って行くと、レーラの神殿跡のアーチの下に何かが見えた。半分透き通っているようで、霊とはこのようなものを云うのかも知れないと彼は思った。歩みながらキタラーの弦をもう一度指先で弾いた。アーチの下の人影が、瞬時、明瞭になったように思えた。ミーレートス風のチューニクをまとった少女が見えた。白い布の衣装と黒い髪が鮮明な対照を造っていた。
　　シュンクレティアースの視線は少女の眸を見つめたが、少女の視線は別の何かを見つめていた。シュンクレティアースは、背後を振り返った。

　　「アレクサンドラ様」
　　少女は、エレイアの邑に通じる小径の丘に人影を見たように思った。白い長衣に鮮やかな翠のサッシュをして、黒髪の頭上に銀の冠を付けている女性の姿。
　　（いえ、あなたはわたしを見てはいない。わたしとあなたは、ここでは出会わないのです……）
　　（その通りです。師姉アレクサンドラ、わたしには確かに師の姿が見えません。でも感じることはできます。師は、この宇宙に遍く存在しておられると、空の彼方の鳥に似て、水のなかの魚に似て、野と森に住まうレアーの聖なる鹿たちと同様に……）
　　（何と仰られますか？）
　　少女は、視線を自分の足下に向けた。オグドアスの石の配置があり、石板の上にレリーフとなって刻まれている模様が見えた。これは水仙の花の模様だ。

　　振り返ったが何も見えなかった。いや、あの音は背後から聞こえてくる。レーラ・アルテミス・レアーの古神殿の遺跡から。シュンクレティアースは石畳がかつては整然と敷かれていた道をレーラの神殿前へと歩んでいた。
　　嵐のうなりと鳥たちの翼の羽ばたきの音はますます高くなって行き、キタラーの音が複数聞こえた。それらは和音を構成しつつ、宇宙全体を満たすように遍在して響いた。


　　かすかに紫色を帯びた、透明な冠を頭上に載せた女性が言った。
　　「ミルディス、あれを何と解釈しますか？」
　　傍らの銀色のサッシュを肩に付けた若い女性は、広場の中心の塔を眺めて答えた。
　　「〈レーラの星〉です。サンダルフォンでヴァルターは預言を行うのですね、教母様」
　　「シュンクレティアースは自分が誰か気づくでしょうか」
　　教母プラティナの右手に、瞬間、透明な細い笏杖が出現した。
　　「運命は、私たちを最終的に〈孔雀の広場〉に導くと思います、師母プラティナ」
　　プラティナは銀の笏杖を軽く振った。

　　》シュン・リル・シャ・ルラ
　　石板が綺麗に敷き詰められ、昔は厳粛な場所だった庭苑の手前にまで来ると、シュンクレティアースは立ち止まった。
　　確かにキタラーの演奏が響いている。それも耐え難いまでの激しさと数で。だが、一方で、このレーラの聖域には、そのような音はなく、風の咆吼も嵐のうなりも何一つなかった。
　　「どこに行かれるのです？」
　　（レーラにです）
　　「レーラはここではないのですか？　智慧の乙女よ」
　　》ルラ・シャン・シュ・リシュ
　　リュラーの澄んだ音が、宇宙の壮麗な騒音のなかで清冽に響き木霊した。

　　突然、すべての音が消えた。砂を振る音も、耳鳴りも、嵐の叫びも、鳥たちの羽ばたきの音も、すべてが瞬間の静謐のなかで止まった。
　　シュンクレティアースはレーラ・アッテロスの神殿跡のアーチの下で、ひとり佇んでいた。彼は足下を見つめ、オグドアースの形に並んだ石を見た。真ん中に、白い百合の花があった。
　　花を手にとって見たとき、シュンクレティアースは花が瑞々しく、たったいま切り取られたように新鮮で、冷たい露が花びらと茎に雫となって凝固しているのを知った。
　　シュンクレティアースは、ゆっくりと周囲を見渡し、自分の進む道を探した。